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旧・宇治火薬製造所

​歴史を探る

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厨子義則さんのフェイスブックから転載

1.土地利用規制法案

フェイスブック掲載日2021/6/4

 今日は一日雨に降り込められ、畑仕事もできず、スロージョギングもできず、仕方なく部屋の整理をしていると、自宅が自衛隊宇治駐屯地黄檗基地から1km内にあるらしいとの話が舞い込みました。

 菅内閣は、コロナ禍のどさくさに紛れて土地利用規制法案を衆院で通し、本日4日、参院本会議で審議入りさせました。

 とりあえず黄檗基地そばの隠元橋東詰まで車で行き、カーナビで自宅までの直線距離を測ったところ、JR木幡駅付近までが1km範囲で、自宅はやや越えていました。

 この法案は基地などの周囲約1kmを「注視区域」に指定し、市民を広く監視し、住民の権利を踏み躙る法案です。「1kmを越えているから関係ない」ではすみません。絶対に強行を許すわけにはなりません!(地図はTさん提供)

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2.引込線跡

フェイスブック掲載日2021/7/14

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 ちょうど1年前、Facebookに「JR木幡駅から、伏見区桃山町大島の住宅地あたりまでの旧日本陸軍宇治火薬製造所分工場までの引込線跡」についてアップしたのですが、その後、当時を偲ぶ写真を探していると、「我が家の近所の鉄道廃線跡・陸軍宇治火薬製造所引込線」というタイトルのホームページに、まだレールが残っている写真が掲載されていました。早速、作者に使用をお願いしたところ、快諾を得たので、掲載します。

 さて、国土地理院の空中写真閲覧サービスからダウンロードした空中写真のA点が、レール切り替えポイントの写っている写真で、火薬製造所分工場入口と思われます。同じく、C点の写真は、木幡駅方向(東)に向かって、京阪線をまたぐ橋桁が見える位置です。

 なお、B点は、私が少年の頃、木幡駅から引込線跡を釣り竿を肩に歩いて魚釣りをした場所です。60年も前の思い出が生き生きとよみがえってきます。同時に、黄檗にある火薬庫と火薬製造所など戦争の負の遺産が、私の住む東宇治に多数残っており、調べようと思っています。

 なお、これらの写真はNHK大阪総合テレビ 2021年6月17日 11:30~11:54 ぐるっと関西おひるまえ 「京都・宇治市・誰も通れない不思議な橋」、同日のNHKニュース630「京いちにち」 「はてなリサーチ」のコーナーで使用されました。私は見逃してしまい残念です。

3.旧日本陸軍造兵廠火工廠宇治火薬製造所分工場までの引込み線跡

フェイスブック掲載日2021/7/18

 我が家のすぐ北側に大きな土堤が東西に走っています。これは、JR奈良線木幡駅から、現在の伏見区桃山町大島の住宅地あたりにあった旧日本陸軍造兵廠火工廠宇治火薬製造所分工場までの引込み線跡です。宇治にある一連の戦跡の一つです。

 

 少年の頃、伏見に住んでいたわたしは、旧国鉄稲荷駅から列車に乗り、木幡駅から引込み線跡をとぼとぼと釣り竿を肩に歩いて木幡池で魚釣りをしたのを憶えています。当時はまだレールが敷設されたままでした。今、そのそばで暮らしていることに因果をおぼえます。

 

 JR奈良線は複線化の工事が各所で進められており、引込み線の分岐部分も撤去されたのではないかと心配になり確認したところ、まだ残っていました。75年前の戦争を語る戦跡は後世のためにも保存しなければならないと思います。

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フェイスブック掲載日2021/6/4

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4.隠元橋レンガ

フェイスブック掲載日2021/7/23

 今朝、隠元橋まで散歩してきました。宇治の東と西を結ぶ隠元橋の謂われを読むと、昭和24年(1949)4月に初めて橋が架かるまでは、隠元の渡しと呼ばれ、人々は渡し船で行き交っていたそうです。このあたりは古くから水運による交通の要衝で、人々の往来や物資の流通がひんぱんであったと書かれています。

 宇治市史第4巻によると、明治27年(1894)、政府は日清戦争を開始し、戦争遂行のため、この南東方向に宇治火薬製造所を作りました。国土地理院閲覧サービス(1945~50当時)の空中写真と、明治30年(1897)の宇治火薬製造所全図を見比べると、まだ隠元橋は架かってませんが、そのすぐそばの荷揚場から、火薬の揚げ降ろしをしていたことが想像できます。

 散歩の途中、生い茂る雑草をかき分け、この付近の川原に降りてみました。隠元橋を望みながら撮った写真にはコンクリート製構造物が破壊された様子が写っています。宇治火薬製造所荷揚場の一部だったのでしょうか。そして、その付近の砂浜に埋もれていたレンガを掘り出すと、写真のような刻印が打たれていました。

 少し興奮する気持ちを抑えながら、家に帰り、ネットで調べると、明治21年(1888)に設立された大阪窯業株式会社の古いタイプの刻印らしく、宇治火薬製造所跡に設置された陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処にも同じものが見つけられるそうです。

 日常、散歩に使う生活エリアに、戦後76年間も眠り続ける戦跡が存在することに改めて驚いています。

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5.中西伊之助

フェイスブック掲載日2021/7/26

 我が町の歴史の中で、気がかりな戦前の宇治火薬庫や、宇治火薬製造所の歴史を調べているうちに、中西伊之助研究会編「農夫喜兵衛の死(新訂版)」(2007年9月初版つむぎ出版)にめぐり会った。私は、40年近く宇治の槇島、木幡に住みながら、ついぞ今日まで中西伊之助を知らなかった!その日のうちに「農夫喜兵衛の死」をむさぼり読んだ。新訂版の後記に現日本共産党京都府会議員水谷修氏が「我が故郷・宇治が生んだ巨人-中西伊之助は、抑圧される労働者・農漁民に心を寄せる、気骨の人であった。多くの人に伊之助を知っていただきたい。」と結んでおられます。

 中西伊之助は1887年(明治20)宇治槇島に生まれ、14才の頃、宇治火薬製造所で働いた経験のあるプロレタリア作家であり、戦後、1949年(昭和24)1月の総選挙で日本共産党の公認候補として立候補し当選を果たしています。そして1958年(昭和33)に波乱に満ちた人生を閉じました。

 「農夫喜兵衛の死」は、1923年(大正12)5月に改造社から書き下ろしで上梓されました。日露戦争を背景に、個人ではいかんともしがたい小作人の置かれた境遇をリアルに描いた名作です。手塩にかけて育て収穫した米のほとんどを翌日には小作料として、喜兵衛と息子の伝作とで船に乗せ、宇治川を下って中書島の地主まで届けるのです。

 文中の一節に、「右手の岸では、土砂を運ぶトロッコが、細いレエルの上を、労働者が二人ずつトロッコを押して行った。今度その一帯に、陸軍の火薬製造所が建てられると云うので、今、その地均工事をしているのであった。もう一・二年もすれば、そこでは、巨大な工場ができて、・・・。」

 私は、かなりの飛躍を承知で述べますが、建設中の火薬製造所は、現在の京都市伏見区桃山南団地付近にあった火薬製造所分工場のことだと思うのです。槇島村の小作喜兵衛と伝作は「隠元の渡し」西詰めの宇治川左岸から小船をだし、右手に建設中の分工場を見たのである。

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 1894年(明治27)、日清戦争による火薬の需要急増に対応すべく、陸軍省は宇治火薬製造所を1896年(明治29)開所した。1904年(明治37)、日露戦争により、再び火薬の需要が増加したため、陸軍省は伏見町向島の水田を買収し分工場の建設を開始、1906年(明治39)3月、竣工しており、15才になった伝作は分工場の職工となった。

 分工場へは1940年(昭和15)になって、木幡軍用線(宇治火薬製造所分工場への引込み線)が敷設された。私が今暮らしている北側を、かつては火薬列車が走っていたのです。

6.「宇治の火薬」とロシア革命

フェイスブック掲載日2021/8/2

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 宇治の火薬を調べるために、宇治市立図書館で宇治市史の年表(528p)を見ていると、大正6年1月(1917)、「ロシアから火薬製造の注文を受けた宇治火薬製造所が、ドイツのスパイを警戒して戒厳状態となる。」との見出しに目がとまりました。1917年と言えばロシア革命の年です。

 さらに宇治市史第4巻「大正期の火薬製造所」の項(333p)には、「大正3年(1914)に第一次世界大戦が起こると、日本軍の直接の戦闘行為は微々たるものであったが、同盟国であるロシアからの注文はとりわけ多量で、戦争開始前に比べ大正6年には職工数3,000人と倍増していた<大朝=大阪朝日新聞社 大正6・1・22>。」とあります。

 京都市醍醐中央図書館で偶然にも見つけた「大阪砲兵工廠物語-創立150年 新聞記事を中心に」(久保在久著、2019.5.1 耕文社)を読んでいると、同じ時期、「大阪砲兵工廠には大正3(1914)年秋、ロシアから小銃購入の発注があり、大正4(1915)年夏に至り更に大量の注文が来た。小銃100万挺、弾薬1億発、見積額は1億円にも達する巨大なものであった。ロシアは第一次世界大戦で疲弊した西欧諸国に依頼することができず、米国は単価が高いため止むなく日本に発注せざるを得なかったらしい。」「大正5(1916)年1月、ロシアの皇帝陛下ニコライ2世の名代として大公ミハイロウイッチが京都経由で、大阪砲兵工廠を来訪。来訪の目的はロシアが注文した兵器の製造状況の視察であった。」とありました。

 皇帝ニコライ2世による専制体制が敷かれていたロシアでは、「平和とパン」を求める国民の要求が高まり、1917年3月(旧暦2月)、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で労働者のストとデモが起き、これをきっかけに帝政ロマノフ王朝が崩壊、臨時政府が樹立され(「二月革命」)たが、臨時政府は戦争(第一次世界大戦)を継続したため、即時講和・食糧・土地を求める労働者・農民の運動の高まりの中で、レーニンが率いるボリシェビキ(ロシア社会民主労働党内の革命派)の指導のもとで労働者・兵士らが11月7日(旧暦10月)、武装蜂起して臨時政府を打倒。労働者・兵士・農民ソビエト(ロシア語で「会議」の意)が権力を握った、とは歴史の事実です。

 歴史の流れを見る限り、宇治や大阪で作られた火薬や武器がレーニンが率いるボリシェビキに向けられたと想像するに難くありません。宇治の火薬を調べるうちに、こんな世界史につながっていることに、改めて驚きを感じています。

7.火薬製造所の大爆発

フェイスブック掲載日2021/8/3

 終戦から76年目を迎える来月、8月16日の五山送り火は、新型コロナウイルス感染「第5波」に見舞われ、昨年と同様に規模を縮小して行われるようです。

 実は、1937(昭和12)年の8月16日夜11時頃、宇治火薬製造所で大爆発事故が起こり、盆休みの最後の宵をくつろいで、寝所に入ったところの人々が一刻を争い着の身着のまま逃げまどう事態が発生しました。

 知らせを受けた深草の陸軍第十六師団司令部は、警備隊を派遣し、秩序の回復を図ったが、それは住民の救援というよりも、軍機保持のためであり、被害の記録写真などの探索が行なわれたということです。(宇治市史第4巻)

 軍はこの大爆発を「被害は極く軽微」と発表しましたが、深夜の3回にわたる大爆発で周辺の全壊家屋142戸、半壊は139戸など、大きな被害を受けるなど、実に、火薬製造所の周囲約4キロメートル四方に壊滅的打撃を与える大爆発でした。

 この時の様子を京都大学名誉教授の故西山卯三博士は次のように回想されました。

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 「私はまだ応召前で、北白川の下宿で住宅調査集計の仕事に夜を更していた。午後11時すぎ、突然『ドーン』というにぶい爆発音をきいた。 宵のうちは夕涼みの人でにぎわっている北白川の通りも、その頃は人影 がなくなっていたが、驚いて表に飛び出す人もいた。大陸で始まったば かりの戦争を思いあわせ、人びとは不安気に話しあった。爆発音は二、 三回聞いたが、東山にさえぎられて光芒はみえなかった」(『戦争と住宅』)。

 洛北の北白川で爆音がとどろいたというのだから、爆発のすごさが窺い知れます。ちなみに西山博士は事故の翌年、陸軍歩兵少尉としてこの宇治火薬製造所に赴任することになりますが、赴任したときにはすでに、爆発で破壊した土塁の復旧工事がすすんでいたそうです。

 ところで、宇治川を挟んだ西側に、旧宇治町小倉村がありました。宇治市立図書館に小倉村郷土会発行の「郷土」という小倉村機関紙が縮尺版で保存されており、昭和12年9月15日付けの紙面「時報 宇治火薬作業場の爆発」との見出しで、宇治火薬製造所の爆発事故に関する記事がありました。読んでみると、「去る8月16日午後11時20分頃宇治火薬製造所作業場の一部爆発、深夜の夢を破られた村民は戸外に飛出し、学校、茶園、竹藪其他へ避難した。損害は窓ガラス多数を破損した程度で人畜に被害がなかった。」との記事になっています。

​  軍の発表を受けてのことですが、事実をねじ曲げるこの姿こそが、政治の恐ろしさを物語っていると思います。権力者の意向を先回りして忖度することが戦争を支える保証になったと思います。小倉村という小さな村の小さな機関紙ですが、日本の隅々の小さな単位で、こんなことがおこっていたのです。「先回りして忖度」は「モリカケ」問題や「桜を見る会」問題など、今も昔も変わりません。

8.宇治火薬製造所と浄水施設

フェイスブック掲載日2021/8/4

 いつものスロージョギングコース、宇治川堤防の隠元橋を過ぎ、上流方向の宇治浄水場西門あたりの宇治川右岸に高さ2メートルあまりのいかにも古めかしく、もう役割を終えたかのような姿の構造物が建ち残っています。

 特に表示も無く、何の目的でそこにあるのか分からないまま時が経過し忘れていましたが、今回、火薬の調査にかかわり、何の目的で建っているのか思い切って宇治浄水場を訪ねました。

 応対された職員さんはとても親切丁寧に、「この付近、地下80メートルあたりに宇治川の流れに沿って太いパイプが走っており、その中を宇治川の伏流水が流れています。」「あの構造物は伏流水接合井(せつごうせい)と言って、浄水場へ伏流水を取り込むためのものです。」と説明を受けました。

 

 もしや、旧火薬製造所に関わりのある構造物ではないかと期待していた私は、気落ちしながら、「それでは、戦後、浄水場ができたときに作られたものですか?」と尋ねると、「浄水場の土地は国からの借り物であり、地下の太いパイプや伏流水接合井は、戦前に作られた旧火薬製造所の浄水設備の一部で、それも国からお借りして今も使っています。」「伏流水接合井から取り込まれた水は、現在の陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処にある旧火薬製造所の給水塔まで運ばれていました。」

 

 この説明を聞き、私は、「見込み通り、期待外れでなかった」、「ここにも宇治火薬にまつわる戦跡がひっそりと佇んでおり、今も現役で伏流水を浄水場へ送っているんだ」と、誰も気がついていないことを発見したような気持ちになりました。

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 さっそく自宅に戻り、もう少し詳しく宇治浄水場のことを調べようと、宇治市のホームページを繰っていると、「宇治浄水場~飲み水・水道水ができるまで」というパンフレットがあり、開いてみると、「伏流水接合井」の写真や「宇治浄水場の成り立ち」のページに、「昭和25年(1950年)4月に旧陸軍が火薬製造所の水道として造った浄水場等の施設を借りて、宇治川の伏流水を原水に水道水を配ったのが最初」と、はっきり書かれているではありませんか!

 自分の勉強不足に、また少しがっかりしながらも、私にとっては火薬調査の1ページが加わったんだ、と納得しています。

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