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宇治自治体問題研究所
折居川と井川
宇治市史などから
■折居川
(おりいがわ)
折居川は、市役所の南の折居山から下居神社、市役所前、宇治市福祉公社(前消防署)前の道路、宇治中学校の南側(職員駐車場前)を通って、JRをくぐり、追手川と合流して井川に合流しています。
なお、折居川は現在、下居神社付近からJR付近まで暗渠になっています。
さらに、市役所南方の丘陵地の宅地開発による水害防止のため折居川暗渠分水路が設置されました(昭和51(1976)年)。
宇治市史第2巻(宇治市役所発行1974年3月第1刷、1986年6月第4刷)P611より
「広大な折居山を水源とする折居川がしばしば暴威をふるったのも、茶の町宇治にとっては悩みのたねであった。」
「ともあれ、この川は平常ほとんど水がなく、いったん大雨となれば上流から大量の砂礫を流して、流域に大きな被害を与えたという。」
「地形を見るとその流路は、宇治琵琶の現市役所付近から図44に見るように河谷の最深部を離れ、左岸に伸びる丘陵腹に沿って流れるという不自然さを見せており、それが人工の築堤によって本来の自然流路から改変されているものであることがわかる。」
「近世には、宇治琵琶および下居の谷底部が中川原と呼ばれる湿原であって、古来の折居川はその湿原を通過して、谷の最深部を北に向かい、宇治壱番・宇文字・戸ノ内などを経て宇治川に流入していたと推定される。図44には、その自然流線の推定方向を破線で示した。このことは、その波線をほぼ中心線とする小規模な扇状地の形成が確認されることから裏付けられよう。」
折居川が現流路をとった時期は?
豊臣秀吉のころだろう
宇治市史第2巻P612より
「折居川の治水工事が施され現在の流路をとるに至った正確な年次はもとより知る由もないが、二、三のことからその年代を推定してみょう。」
「将軍足利義満は茶の栽培を奨励(略)宇治に茶園を拓かしめたという。」「宇治における初期の茶園はすべてこの折居川による扇状地を利用して拓かれていることから推して、すなわちこれらの茶園が設けられていった室町初・中期に、最初のおそらく小規模の折居川治水工事が行われたものと考えられる。」
巨椋池干拓地の完成図(南半分)
承水溝2号が井川
宇治市史第4巻P431の図の下部
宇治市史第2巻P612
宇治市史第2巻P613
図の「消防署」は、現在の宇治市福祉公社が入っている建物。その下に宇治保育所があった。
宇治市史第2巻P614
宇治市史第2巻P613より
「宇治一之坂から広野町へ通じている現府道宇治淀線は、豊臣秀吉の時代に疎通されたという。」「そのころに折居川の流路が変更されたものと考えてよいであろう。」
「現折居川と府道宇治淀線の交点、つまり宇治一之坂の上端部だけは、近年の道路改修まで路面と河床の高さがひとしく、道路の幅だけ堤防が築かれていなかったことである。」
「したがって折居川を水が流れる際には、川を挟んで位置する坂井戸町と四番町の人々が、両岸にハメ板を落として流れの横溢を防ぎ、水が引くまでいわゆる川止メ(通行止)という原始的な処置を行っていた。」「しかもそれが近年まで現実に存在していたのである。」
「このうち宇治下居の南部から北へ小字壱番・米坂にかけての堤防は、もとその堤高が現状より約二メートル高いものであったという。昭和初年にその上端部を切り取って川底を下げ、堤防上の道路を拡幅していまのような姿としたのであった。」(P617)
折居川下流の流路
宇治市史第2巻P613より
「井川が疎通された年代についてもいまは知ることができないが、この資料によってそれが寛永以前にさかのぼるものであることを知り得る。」
現在の折居川は追手川との合流付近から流路を左に変えている。「もとの流路Aは俗に古川原と呼ばれる低湿地となっており、石樋跡は掛越(かけごし)と言われ、またその北方には樋尻の小字名が現存している。」
折居川は、追手川と合流して旧流路Aを北流し、宇治半白地内で「人工用水「井川」と交差し、さらに北方の小字「外」において宇治川旧流路のひとつである古川に流入していたが、寛永十年(1633)十月、この井川との交差点に長さ十二間・内法三尺五寸四方の石樋を架して、井川の水を越えさせることになった(『前代記録』)。それより前はおそらく木樋を架していたのあろう。」
宇治市史第2巻P617
「昭和初年、巨椋池畔の灌漑用水の不足を補うために折居川の水を利用することになって、折居川を現在見るように井川に合流させた。そのため旧流路Aは昭和6年に、その後の承水路Bも昭和33年に、共に廃川となったが、図47にみられるようにA・B両水路とも近年まで堤高約2メートルの堤が遺存していたのである。」(P618)
折居川の分水路
宇治橋西詰の下流すぐ傍に「折居川樋門」があります。折居川は上述のように井川に合流して西に流れているのに、折居川の排水口が、なぜ東の宇治橋近くにあるのか?疑問に思い、市役所の担当課で説明していただきました(2021年12月8日)。
①折居川は、宇治法務局の前で分水し、分水路(折居カット排水路)が都市計画道路に沿って地下に埋設されている。その分水路の排出口が「折居川樋門」。②折居川の水は、井川の負担軽減のため、通常は分水路(カット排水路)に流している、と説明を受けました。
(折居カット排水路)
宇治市政だより 昭和51(1976)年6月21日付
折居川の分水路
昭和51(1976)年6月21日付「市政だより」に、「さる50年2月から進められていた折居川分水路工事が5月でほぼ完了しました。
この工事は、市役所の南方にあたる丘陵地の開発により、大雨が降ると下流に浸水などを引き起こす恐れがあるため、折居川に流れる水の一部を分水路により宇治川に流そうというもので、梅雨にともなう大雨にさっそく威力を発揮しています。」と記されています。
折居川樋門(宇治橋西詰の下流そば)
■井川
井川
地理院地図
宇治市史第2巻P618より
「平等院付近の宇治川左岸から取水し、宇治蓮華・妙楽・里尻を経て戸ノ内地内においてユニチカ宇治工場の外周に沿って西流し、府道宇治小倉停車場線にほぼ並行して」「小倉町に入り、府道から分離して南西に向かい、旧巨椋池南岸にあたる伊勢田町南遊田地内に至っている。」
宇治市史第2巻P619
「もとの水路が工場敷地内を通過することになった関係から、現在の水路を交換水路敷として与えられて、ややその経路を変えたほかは、おおむね古来のままであると考えられる。」
取水点に目を向けて
「先に記した寛永十年以前から井川が存在したことを立証する資料は、いまのところ見いだせない」
宇治市史第2巻P620の写真216は、「現存する最古の宇治郷図絵と考えられるもので、おそらく江戸中期後半に描かれたものであろうが、これによると井川の取水点が現在位置より上流にあたる喜撰橋付近の宇治川左岸であったことが知られる。」
「さらに園池の排水路として掘開されたものが、蓮華から里尻へ続く井川の上流部であったものと考えられる。したがって初期の井川は、里尻付近から宇治川または折居川旧流路に放流されていたものと推定される。いま、里尻から北へ分流する小水路が存在しているのは、その放流路の名残りであろうと思われる。」
「現在この分岐点に堰門が設けられて、後に述べる灌漑用水井川の水量調整を行っているが、初期においては平等院阿字池が、これに代わるものとして水量調節の機能を果たしていたのかもしれない。」
「井川上流が阿字池の排水路であったという右の推論が正しければ、その上流部の掘開は平等院の創建と期を一にすることも考えられる。」
撮影:2021年11月8日
平等院の西
撮影:2021年11月8日
宇治橋通の増井医院の隣の看板
井川の疎通
「宇治市小倉町一体の集落形成は、同町神楽田や巨椋神社付近における弥生遺跡の発見に見られるように古代以前にさかのぼるものがあるが、集落の発展に伴う農耕地の拡大に必要な水利に関しては、決して十分なものではなかった。」
総延長「約2,124メートルのところに、前述した通り宇治川左岸の取水口の標高は約17メートル、その流末である排水点の巨椋池水面高は平常11.42メートル、その中間である小倉付近の灌漑必要地で13~14メートルである。ということは、平均すれば千分の2.6程度の緩勾配になり、このような井川に通水することは非常に高度の技術が要求されたものと考えられる。」
「井川全通の時期は、その初見である前記寛永十年からそれほど遠く離れた時代とは考えられず、やはり土木技術が発達してのちの中世末期に成ったものであろうと思われる。」
「小倉の人たちは自分たちの拓いた微高地上の田畑に対する灌漑用水として、遥かに遠い宇治川の上流に目を向けたのである。」
「宇治里尻、もしくは同戸ノ内付近から西の井川、すなわち二次的に掘開延長されて灌漑を主目的とした井川については、その正確な疎通年代やその経緯を知ることはできない」。
■小河川
弥陀次郎川
宇治市史第2巻P625より
「宇治市内には、この折居川や井川のように治水や灌漑の目的を以て、流路が変更・延長されたと思われる小河川が多い。すでに第一巻に説かれた山科川・名木川・大谷川をはじめ、木幡の堂ノ川、五ケ庄の弥陀次郎川・新田川、菟道の戦川などそれに当たるものと見られるが、いずれもその詳細を知ることはできない。」
■弥陀次郎川
宇治市史第2巻P625より
五ヶ庄広岡谷から流下する弥陀次郎川は「古くは五ケ庄芝ノ東付近から西南西に流れ、府道黄檗停車場線に沿って隠元橋南方至っていたといわれ、右の府道は当時の堤防の名残りをとどめるものであるとも伝承されている。」
宇治市史第2巻P624
「地形図を見ると、現流路はかつて形成された扇状地の北端近くに位置し、もとは中央部を流れていたであろうこうとが推定され、また隠元橋東方には、それを裏付けるように、古川の小字が現存する。
また、現在黄檗山萬福寺に所蔵されている「万福寺領五ケ庄村絵図」は、天明年間に描かれたものであるが、その絵図は、弥陀次郎川の流路を現在の府道黄檗停車場線に沿う位置に記入している。したがって、弥陀次郎川が現流路をとるに至ったのは、意外に後のことと思われる。
しかし、この弥陀次郎川が現流路をとるようになって、その下流部が五ケ庄と木幡の境界とされた時期も、またその理由もわからない。豊臣秀吉が槇島堤を築いて宇治川を北流させたことによって、木幡池南方が沼沢地帯と化し、隠元橋西南方の槇島町清水・同千足方面の地形も大きく変化したことであろうから、いまは秀吉時代以前の弥陀次郎川の流末は見きわめがたいものとなっている。」
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