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毎年各地で「記録的な豪雨」

宇治川は大丈夫か

昭和28年災害

小学校4年生 社会科学習資料

おぐら池

(1)

​作:布川庸子さん(元教諭)

 この資料は、小学校教諭だった布川庸子さんが小学校4年生向けに手作りした学習教材です。挿絵も布川さんの手作りです(1981年)。

 宇治自治問研で、その教材の文字をデジタル入力しました。

​ 布川さんは、宇治川堤防が決壊した当時は大学1回生で伏見に住んでいました。観月橋まで行き、浸水した巨椋干拓田を見たと言います。

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はじめに

​ わたしたちが住んでいる京都府の南部、つまり京都盆地に大きな湖があったのだというと、きっとみなさんはおどろくことでしょう。

 地図を見ても、そのような湖はありません。

 わたしたちにとって、まぼろしの湖『おぐら池』は長い歴史の中で、いろいろにすがたを変え、そして今、すっかり田畑や住宅地になって、わたしたちの目の前にひろがっています。​

​​ 昭和のはじめのころは、はすの花が咲きみだれ、水鳥がまっていたという『おぐら池』のことを学習することは、人々がどのように水を使い、どのように水とたたかってきたかということを考えることになるのです。

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1.水と人

 わたしたち人間の生活にとって、なくてはならない水。

​ 人々がくらしているということは、かならず水があると考えることができます。飲み水、洗たくの水、田畑をうるおす水・・・・車のない時代は物を運ぶのにも、大いに川の水が利用されてきました。

 でも、一度水がいかりくるったら、おそろしいまもののように、わたしたちにおそいかかってきます。

 水、いいかえれば雨が山や野原にふります。その水は地面にすいこまれます。地面の上を、ひくいところ、ひくいところに集まって川になります。

​ 大むかし、人々がまだ家をもたなかったころ、川はそれこそ自由に、すきなところへ流れていたといえるでしょう。たくさん雨がふったときは、川はばはひろくなりました。雨の少ないときは、ちょろちょろ流れました。あるいは、ひあがっていたこともあったでしょう。そして川は、ただ水だけが流れているのではなく、上流から土や石、砂なども運んできました。

 

おぐら池 平安時代1-2.jpg
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 古代の京都盆地は、びわ湖から流れる宇治川、北の方から流れる山科(やましな)川、白川・鴨(かも)川・桂(かつら)川、南の方から木津川と、たくさんの川が土地の一ばんひくいところ、つまりおぐら池に全部そそぎこんでいたのです。少し小高いところからながめてみると、ていぼうもないわけですから、水、水、水のひろがりが見わたせたことでしょう。

 たくさんの川が集まってくるのに出口はたった一つ、淀川だけです。それも山と山が迫っている、大変せまいところです。そうなると、大雨がふったときは、どんどん水が流れることができず、おぐら池は、水がたまって大きく大きくなっていたのです。

​ 水は生活に必要(ひつよう)です。しかし、水におそわれて、流されたりしてはたへんです。人々は水と、どのようにつき合ってきたのか考えていきましょう。

2.おぐら池のうつりかわり​

 人々は農業をするようになって、住む場所をさだめてくらすようになりました。そして大和地方に都があったころは、宇治・城陽あたりでも、たくさんの遺跡(いせき)がのこっていることでもわかるように、人々がくらしていたのです。

 大和地方に都をつくるときは大きなごてんの柱の木を滋賀(しが)県の山から切り出して、宇治川に流して運んだという記ろくがのこっています。木はおぐら池まで流されてきて、つぎは木津川をさかのぼり、木津であげて、奈良へ運ばれたのです。(槇(まき)島)

 「宇治川の向こう岸へわたりたいので、わたしの舟を呼(よ)んだのだけど、きこえないらしい。近よってくる舟のかじの音もしない」

​というような和歌が『万葉集』という日本で一番古い歌集にのっているのですが、人々の舟でのいききがあったことがわかります。

 また古くから交通の要所(だいじなところ)であった宇治には、日本で最初といわれる宇治橋がかけられています。

 さらに平安時代(京都に都があった)には、宇治のあたりに、きぞくの別そうがたくさんたてられました。

​ 今にすがたをのこす平等院は、藤原頼道(よりみち)の別そうです。

 その当時の人たちは、死んだらごく楽じょう土へ行くことをねがったのですが、頼道はこの平等院に、あみださまをおまつりし、この世のごくらくじょう土を作り出したのだといわれています。

​ また、その時代のきぞくは舟で宇治川やおぐら池を行き来し、島めぐりをしたり、魚をとるようすを見物したり、水辺のさん歩したり、四季それぞれに楽しいもよおしをしたようです。

平等院 平安時代1-2.jpg

 武士の時代には、京都にせめこむ武士(ぶし)たちのあいだで、宇治川をどうしてわたるかが問題になりました。(宇治川先陣のあらそい)

 また、京都、奈良、瀬戸内海(せとないかい)に通ずる水上交通の大事なところでもあったので、宇治川やおぐら池もむかしの武士たちの戦いのようすを見てきたことになります。

 あるときは、ひと足ちがいで舟がでて敵をとりにがしたこともあったでしょう。あるときは、あしのしげみにかくれて命びろいした人もあったでしょう。

 でもおぐら池やそのあたりは、長いあいだ自然の姿のままでした。​

 このおぐら池や宇治川をつくりかえてやろうと計画したのが豊臣秀吉です。 

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 おぐら池の東から北にかけてていぼうをつくり宇治川と池を分けようとしたのです。つまり、川を伏見の方へ引き寄せて港をつくり、水上交通に利用しようとしたのです。​

 まず、槙島堤(つつみ)(宇治堤)と淀堤をつくり、おぐら池にそそいでいた宇治川をおぐら池の北側にそって流れる新しい川にしました。

 そして伏見城をつくるために城の石がきにする大きな石を、まわりにたるをつけて淀川を引いてのぼらせました。今は土木工事に力の強い機械が使われますが、その当時はすべて人の力でした。また大きくて重い物でも水に浮かべて運ぶ方法がよいとされていました。

 秀吉は、大名たちにわりあてをきめて、きょうそうさせて堤を作らせたということですが、この工事には何十万人の人々が働いたことになります。

​ また、それまでは、奈良から京都に行くのには、ひろいおぐら池がわたれないためぐるっと宇治へまわって宇治橋をわたっていたのですが、太閤堤(小倉堤)を作って、豊後(ぶんご)橋(今の観月橋(かんげつきょう))をわたると伏見に出られる新しい大和街道(やまとかいどう)をつくりました。

 こうして考えてみると、今、わたしたちの利用している道が、それぞれ歴史のひとこまひとこまを物語っていて大変身近く感じられますね。

 そのほかに、大池堤や中池堤もつくって、おぐら池は四つの池に区切られてしまいました。

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 宇治川は、切りはなされたとは言え、その水は、かつら川、木津川、おぐら池と淀付(ふ)近で合流していました。その先は男山と天王山がせまった、せまいところですから、大雨がふったときは淀川の方へ流れることができず、水は土地のひくいおぐら池にぎゃく流し、まわりの田畑や家は水びたしになるのでした。

 古くから昭和のはじめまでの間、淀川は大事な交通機関として大変よく利用されてきましたし、江戸時代には、伏見の町も港町としてさかえていました。人の力ですっかり作りかえられてしまったおぐら池には、おおきな船も入って来られなくなりました。

◎国鉄奈良線、京阪宇治線、近鉄京都線、旧奈良街道、国道二十四号線がどこをどのように通っているか、地図を開いて調べてみましょう。

◎京都から大阪へ行く道路、国鉄、私鉄が、天王山と男山の間をどのように通っているか調べてみましょう。

​◎ブルドーザー、ダンプカーなど大型の機械が使われる前は、どのようにして道をつくったりしていたのか調べてみましょう。

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