宇治自治体問題研究所
毎年各地で「記録的な豪雨」
宇治川は大丈夫か
毎年のように各地で「記録的な豪雨」で災害が発生しています。
宇治について調査しようと、取り組むことにしました。20年9月の講演「河川の安全・防災の視点」(宮本さん)に続いて、小嶋さんに「昭和28年災害と宇治市」の講演をしていただきました。
昭和28年災害
と
宇治市
(1)
公開講座 2021年3月21日
講師 小嶋正亮さん
元宇治市歴史資料館学芸員
講演要旨(文責:宇治自治問研 H・T)
1.はじめに
宇治市ができるまで
宇治市人口の変遷
2.昭和戦後に水害多発
3.昭和28年災害「28災」
①8月14日「大正池決壊等」
②9月25日「宇治川堤防決壊」
4.その後も水害続く
資料 昭和28年大水害の被害
1.はじめに
宇治市は昭和26(1951)年3月1日に2町3村が合併して発足した。
宇治市の大字は、基本的には江戸時代の村の名前である。
宇治市発足時(昭和26年、1951年)の人口は約3万8千人。昭和30(1955)年から5年間で約7000人増え、昭和35(1960)年以降に急激に人口が増加している。
昭和28(1953)年災害当時の人口は4万人に満たない。純農村地域であった。
備考(当研究所作成)
■図面は(一社)農業農村整備情報総合センターのHPから
古代~秀吉伏見築城以前の巨椋池
巨椋池の流域
秀吉伏見築城~江戸期の巨椋池
参照
天下統一を果たした秀吉によって伏見に城が築かれ、政権の中枢とそれを支える都市機能の充実が図られた頃、南に接して巨椋池に分流した宇治川もおおむね今のようなひとつの流れにまとめられ、両岸の堤防が整備されたとするのが、世に言う太閤堤の伝承です。このような大きな河川改修事業は、長い年月をかけて、淀川上下流の住民たちが築き上げてきた努力と成果によるものであり、ここで生きよう、豊かな暮らしを送ろうとした人たちが、基盤整備の最終的な仕上げを天下人の偉業として後世に語り継ごうとしたのでしょう。
■巨椋池の干拓
昭和8(1933)年着工、昭和16(1941)年に完了。
■巨椋池の干拓(「水土の礎」から)
昭和7年、国内初の国営干拓事業として、巨椋池干拓の実施が可決されると、翌年から事業が着工されました。池の水を汲み出すために、宇治川の側に排水機場をつくることから始められ、排水ポンプ10台によって、池の底であった約800haは陸地になり、そのうち634haが新しい農地として生まれ変わりました。あわせて、周囲の農地1260haの用排水改良も行われ、干拓田には、耕作のための道路や用排水路が整備され、巨椋池は、整然と区画された農地として生まれ変わりました。
事業は昭和16年に完了し、昭和23年には、全ての干拓田の払い下げが完了します。干拓地の全面積が沿岸農漁民に払い下げられ、周辺農家約500戸は一挙に今までの2倍の約1.6haを持つ自作農となりました。つまり、干拓による利益の全てが沿岸住民にもたらされたのです。
■現代
下の3つの図面は、2020年9月6日「河川の安全・防災の視点」の講演会(宮本博司さん)から