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毎年各地で「記録的な豪雨」

宇治川は大丈夫か

昭和28年災害

小学校4年生 社会科学習資料

おぐら池

(2)

​作:布川庸子さん(元教諭)

おぐら池表紙2.jpg

三.こう水のひがい

 米作りをしている農家にとって田に水を入れるとことは、一番大事なことです。

 雨がふらいないときは『雨ごい』をして「どうか、雨が降りますように」と、いのりました。

​ 水はかならずひつようですが、大雨で田畑が水びたしになることは、これまたこまることでした。人々はそこで、ていぼうをつくりだしたのです。秀吉も、おぐら池の中で、岐阜(ぎふ)県の長良(ながら)川といび川のところにある輪中(わじゅう)のようなことを考えて、ていぼうをつくったのですが、うまく成功しませんでした。

おぐら池の水害.jpg
洪水.jpg

 特に木津川は上流の土や砂が流れやすいせいしつなので、どんどん川ぞこが高くなります。人々のすんでいる土地やまわりの田畑より川ぞこが高くなってしまっているため、大雨がふるとすぐにていぼうが切れて多くのひがいがでたのです。

 また今のようにしっかりしたていぼうではありませんでしたから、川は大水のたびに流れをかえました。

 今の木津川は、八幡市の北西で淀川にそそいでいますが、一八六八年の大こう水までは、もう少し東の淀に近いところで合流していたのです。その時、生津(なまづ)ふ近でていぼうが切れ八幡に大水害をもたらしました。一たんていぼうが切れて流れ出した水を、元にもどすことはできません。よく年、新しい川の流れにそってていぼうが作られ、今の木津川になったのです。生津や際目(さいめ)の村は川の西の村だったのに川の東の村になってしまいました。​

木津川付け替え.jpg

​ 左の表でもわかるように、おぐら池の周辺の村や田畑はたびたび水のひがいにあっているといえます。水の近くに住むことは、いろいろな点で便利なことも多いのですが、そこで、池をどうしたらいいのかということを考えなければならないのです。

四.干拓までのおぐら池

 「昭和のはじめころ、おぐら池のはすの花が、みごとだというので見物に行ったら、それはそれはすばらしく、舟にのって池めぐりをしている間中、ごく楽にいるようであった」と、日本の有名な学者が「巨椋池(おぐらいけ)の蓮(はす)」という文をのこしています(和辻哲郎『埋(う)もれた日本』より)。

 おぐら池といえば蓮(はす)というぐらい蓮の花の咲きほこるおぐら池はすばらしかったといいます。また、おぐら池は水生植物の宝庫といわれるほどいろいろな水草がしげっていました。

​ とくにムジナモは食中植物で天然記念物に指定されていました。

 蓮(はす)やヒシ、マコモ、アシなどは、池の近くの農家の副産物として収入のもとになっていたのです。

 池にいる魚や貝をとってくらしをたてている人もいました。

干拓までの巨椋池.jpg

​ また、水鳥もいっぱいいたので、他府県からりょうに来る人がいて、百せきもの舟でとり打ちに出かけたということもあったようです。

 今も近くに、そんな池があったら、思うぞん分、魚つりもできてよいのにと、思う人もたくさんいるでしょう。

 このようなおぐら池だったのですが、明治の時代になってからは以前にまして困ったことの方が多くなってきたのです。

​ こう水になやまされないように淀川改修工事がなされ、池と川が完全に切り離されたのです。明治四十三年にその工事が完成しました。そうすると今度は、池に水が流れてこなくなり池の水位が下がりました。たまり水になってしまったのですから、当ぜん水はよごれます。

 水がよごれてくると、まわりの農作物がかれたり、蚊(か)が発生しておそろしいマラリアをはやらせました(マラリア、蚊(か)がうつす伝せん病)。

 魚のとれ高も年々減る一方になりました。自然の美しいけしきはどこへやらーーーこの池はほとんど人の役に立つことなく、むしろ害があるということになってしまったのです。

 そこで周りの水害をなくそうということと、美しい田にして米をたくさんしゅうかくしようという二つの目的から、おぐら池を干拓したらどうだろうかという声になっていったのです。

​ しかし、池とはいっても周囲が十六キロメートルもある大きな湖のことです。どうして水を出してしまえるでしょう。工事には、ばく大な費用もかかります。地元の人たちだけではどうにもなりません。そこで国や京都府に何とかしてほしいとねっ心にたのんだのです。

 その間、おぐら池の魚や貝をとってくらしていた人たちとも話し合いが重ねられました。池の水がなくなってしまえば漁業はできません。そのあとの生活はどうしたらよいのでしょう。

 いろいろ、こんなんなことはあったのですが、その当時の日本の国は食糧(しょくりょう)も不足していましたので、この広い池を田にすることに国もさんせいし、日本の国の仕事として干拓工事をすることになったのです。(国営第一号)

​ 昭和七年に工事の起工式が行われました。

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