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旧・宇治火薬製造所

​歴史を探る

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厨子義則さんのフェイスブックから転載

25.奈良線第2期複線化事業に関してJR西日本への質問

フェイスブック掲載日2021/11/3

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 JR木幡駅構内北側に旧陸軍宇治火薬製造所分工場に向かう引込線レールの一部が今も残っていますが、複線化工事との関係をJR西日本に尋ねたところ、取り外すとの事です。

 私は、戦争の過ちを二度と繰り返さないためにも、戦跡は適切な方法で保存すべきだと思います。

 以下、私の質問とJR西日本の回答です。

【厨子からの問い合わせ】2021/11/02 (火)

 いつもありがとうございます。私は木幡駅近くに住んでおり、早く複線化が実現することを願っています。

 さて、戦前まで、木幡駅から西方向にあった旧陸軍宇治火薬製造所分工場にむけて引込線が伸びていました。現在も土手が残っています。

 木幡駅構内を見ますと、引込線に向かうレールの一部が今も残っているのですが、複線化工事が完成すると、引込線に向かうレールの一部は取り外されるのでしょうか。

 私の思いは、歴史的な戦跡の一部として、取り外さずに残しておいていただきたいのですが、どうなるのかご回答願います。

 

【JR西日本お客様センターの回答】2021/11/03 (水) 13:08

 

厨子 義則 様

 いつもJR西日本をご利用いただきまして、ありがとうございます。

お問い合わせの件について回答させていただきます。

 平素は奈良線第2期複線化事業に、ご理解とご協力いただきありがとうございます。

 このたび厨子様からいただいたご意見の該当箇所と思われる木幡駅構内北側のレールにつきましては、新設線路の新設に支障するため、撤去する計画となっています。

 何卒ご理解くださいますようお願いいたします。

 今後ともJR西日本をよろしくお願い申し上げます。

  西日本旅客鉄道株式会社

  CS推進部 JR西日本お客様センター

26.第一疏水建設工事用のレンガ製造工場跡地が陸軍の火薬製造所予定地に!?

フェイスブック掲載日2021/11/3

 京都府の2006年10月1日付「総合資料館だより」NO.149に「琵琶湖疏水建設の周辺」という調査研究報告が掲載されており、「3.煉瓦工場跡地の行方」の項で、「第一疏水工事の期間中、140万個の煉瓦を製造した疏水事務所直営の煉瓦工場敷地は、現在の京阪京津線御陵駅附近の約1万3500坪におよんでおり、その内、4000坪は府が買い上げたものでした。工事終了後(明治23年4月)、この敷地の処理が課題となりますが、当初有力だったのは、陸軍の火薬製造所にする案だったようです。」との記述に出会い、たいへんな驚きと、大きな興味を持ちました。

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 明治20年代前半、中国大陸への進出を背景に大陸に近い関西に火薬製造所の建設が計画され、陸軍は疏水煉瓦工場跡地をその予定地としていましたが、建設予算が付かず計画はご破算になりました。

 

 この経過を記したものが「京都学・歴彩館」(旧総合資料館)所蔵の「親展来書」(明21-10)という簿冊に、明治24年8月の大阪砲兵工廠提理(工廠の業務の統括者)太田徳三郎から北垣府知事あての書面として綴られています。

 さっそく、同館に出向き当該書面を閲覧しました。担当の職員さんは、この綴りは重要文化財扱いのため、貸出しやコピーはできないが、写真は自由に撮ってよいとのことでした。

 この書面には、「『蹴上御陵村ニ火薬製造所建築地』の調査にお手数をかけたが、明治25年度の帝国議会に設置議案を提出することはみあわせになった。」旨、書かれています。

陸軍の火薬製造所はその後、日清戦争開始後の明治27年9月13日に、黄檗火薬庫に隣接する宇治郡宇治村五ヶ庄に設置することが決定されたのです。

 宇治に設置されるまでにはいろいろな経緯があったようですが、その経過は改めて報告します。

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27.民生用火薬製造でスタートした宇治火薬製造所 その1

フェイスブック掲載日2021/11/6

 明治24年8月、蹴上御陵村での火薬製造所建築を一旦見合わせた明治政府は、日清戦争が始まると、それまで板橋・岩鼻・目黒の三カ所に置かれていた陸軍の火薬製造所だけでは足りず、宇治火薬庫の西隣の広い田園地帯に火薬製造所を設置しました。

 政府は明治12年に火薬取締規則を布告し、火薬は「人民に於て製造すること」を禁じ、「陸軍海軍両省より其貯蔵品を払下ぐべきもの」とし、「戦時若くは事変に際しては陸軍卿海軍卿は火薬類の払下げを停止し内務卿は其売買運搬を停止することある可し」などと定めていました。

 日清戦争までは軍用より民政用の需要のほうが大きかったのですが、明治27年7月、日清戦争が始まると軍は、「現在の火薬製造所に在ては目下陸海軍需用火薬製造多数にして、到底鉱業用の火薬を製造するの余裕無之依り不得止軍事上に関するものの外は当分払下致停止」としました。

 その結果、民生用火薬を使用する鉱業者をはじめ、府県知事、鉄道省などから陸軍省に対して払下げを求める要請が相次ぎ、ついに同年8月15日、農商務大臣子爵榎本武揚は陸軍大臣伯爵大山巌に対し、「火薬の儀は鉱業上最要不可欠ものなるに今や内外共に供給の途を失いたれば其困難損害当業者に止まらず国家経済上にも少なからざる影響を来たしたる」との強い要請を行いました。

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 これを受け、同年8月24日、大山巌は内閣総理大臣伯爵伊藤博文にたいし「農商務大臣との協議の趣有之此際一の火薬製造所を新設致度其新設費用概算別紙計画書の通閣議を請う」と請議し、同年8月29日には「請議の通閣議決定相成然るべし」と決定されました。

 日清戦争開戦から1ヶ月で火薬製造所建設予算が付きましたが、まだ建設予定地は決まっていません。同年11月1日には、「急遽假工場を設備し、鉱山綿火薬を製造し、民間の需用に充てた」と記録がありますので、わずか2ヶ月のあいだに火薬製造所の場所の確定から建設までが行われたことになります。この経過は次回に。

28.宇治火薬製造所 その2 

用地確定から用地買収までわずか半月

-京都府知事の強権的、強引な土地買収-

フェイスブック掲載日2021/11/8

 火薬製造所建設予算が付くと、大阪砲兵工廠提理太田德三郎はさっそく「火薬製造所の地所取調の為め京都府下へ出張致度此段相伺」と明治27年8月31日付けで大山陸軍大臣あて電報を打っています。

 国立国会図書館デジタルコレクション「明治工業史火兵篇」第十編 第八節「宇治火藥製造所」(昭和4年12月8日発行)に「明治二十七年九月、板橋火薬製造所長島川文八郎及び目黒火薬製造所長石藤豐太の兩名は陸軍省の命を帯び、太田大阪砲兵工廠提理指揮の下に製造所設立地を踏査し、材料の運搬及び水質の良否等を顧慮し、遂に地を山城國宇治郡宇治村字五ヶ庄に選定し、京都府知事中井弘の斡旋盡力に依り、直ちに約十八万坪の土地を買収せり。」とありました。

 同年9月12日、大阪砲兵工廠太田提理再び京都に出張し、京都府知事中井弘に合っており、火薬製造所の場所が宇治村字五ヶ庄に決まったことを伝え、用地取得などの段取りを打ち合わせたのでしょう。

 9月14日、陸軍省軍務局長及び経理局長は内務省に経過報告と京都府への対応について照会、同15日付けで内務大臣伯爵井上馨は陸軍大臣伯爵大山巌あて「火薬製造所敷地として民有地買収の件に付照会の趣了承し、本日京都府へ電報により訓令した」と回答しました。

 内務省からの訓令を受けた京都府知事中井弘の動きは宇治市史第4巻に次のように記されています。

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 「宇治郡宇治村五ヶ庄での、甲子園球場約35個分に匹敵する56万4,300㎡(17万1,000余坪)の土地買収は、ときの京都府知事中井弘の強権的、かつ強引な方法により約一週間で終了しました。その様子は『土地の所有者共を学校に入れて外から門を緊め巡査を立番せしめ、少しでも煽動がましいことをする者はドシドシ私服巡査を尾行させて検挙』するといったものであったと、のちに関係者の懐古談が明らかにしています(明治42年8月24日付け『大朝』)。」

 「征清役」遂行中の、そのための火薬欠乏という大義名分と、土地収用法をちらつかせる強権的方法により、用地買収はまたたく間に完了しました。

 

 用地買収の監査役であった第四師団堀監督部長は10月4日に実地立会の上買収したことを見届けたと大山陸軍大臣に報告しているので、中井知事の土地買収は9月20日前後だったのか?いずれにしても、強権的、強引な土地買収が演じられた一件でした。

29.「愚かな戦争」遂行の軍事施設がもたらす弊害 

フェイスブック掲載日2021/12/5

 宇治市内を流れる宇治川とJR奈良線にはさまれた地域に旧日本陸軍の火薬製造所などがあったことは何度かふれました。

 昭和4年2月、宇治郡宇治村の住民1,008名が連名で、火薬製造所が原因の不利益に対し、宇治村への助成金を国に求める請願を貴族院におこない、貴族院は「願意の大体は採択すべきもの」と同年3月に議決し請願は採択されたという出来事がありました。

 署名簿には黄檗山萬福寺の住職をはじめ、「平民農」、「平民職工」、「平民銀行員」、「平民茶商」など多岐にわたる人々が名を連ねており、住所や姓がほとんどダブっていないので、世帯の代表が署名されたと思われます。

 昭和5年の国勢調査では、宇治村の戸数1,463戸、人口6,551人であり、当時、村ぐるみの署名運動が取り組まれた様子がうかがえます。

 請願の概要は、「陸軍火薬庫や火薬製造所の建設により、広大な土地が取り上げられ、土地に対し課税すベき恒久的財源を失った。火薬製造所に働く職工が増え、村人口の増加により教育費が大きく膨張したが、職工は担税力に乏しく、在来の村民の負担が増えたことなど、村財政はいよいよ窮迫している。海軍火薬廠の所在地に対しては、このような場合、毎年助成金が交付されているので、宇治村に対しても相当の助成金を交付されたい。」との趣旨が述べられています。

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 昭和12年8月18日付「京都日出新聞」

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編著:戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会「語り継ぐ京都の戦争と平和」より

 しかし陸軍省は、貴族院の議決を無視し、「陸軍は全国にわたり広大な施設を有し、これらの所在地市町村にいちいち助成金を交付することは事実上不可能であり、『陸軍に於ては目下助成金交付の意図なし』」と拒絶しました。陸軍が一切を支配する超法規的な出来事です。

​ この経過は陸軍省の「永存書類」という綴りに「陸軍火薬製造所所在地 京都府宇治郡宇治村に助成金下付の件」という標題で保存されています。

 火薬製造所が設置されて以来、宇治村の人々は火薬原料の垂れ流しによる公害問題や大爆発事故による恐怖にさらされることになりました。

 「愚かな戦争」遂行のための軍事施設がもたらす弊害は沖縄の米軍基地をはじめ、今も共通する問題です。

 地図は東宇治の戦跡位置図(編著:戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会「語り継ぐ京都の戦争と平和」より)、写真は昭和12年8月18日付け「京都日出新聞」の大爆発事故の記事です。

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