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旧・宇治火薬製造所

​歴史を探る

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厨子義則さんのフェイスブックから転載

17.「決戦兵器の基幹たる火薬の製造が国家の最優先」は自民党総裁選出馬の高市前総務相「防衛費の増額GDPの2%で、10兆円規模だ」と相通じる戦争への狂気

フェイスブック掲載日2021/9/20

 先に書いた京都大学名誉教授西山卯三博士の「宇治は火工廠の中でも、平時は全軍隊の需要の半分をまかなっていた日本最大の火薬製造工場である。」との回想を裏付けるような史料を国立公文書館アジア歴史資料センターで見ることができました。「陸軍一般史料中央軍事行政軍需動員実施概況報告(月報) 昭和15年4月~9月」です。この史料中「製造所別月別引渡額」の数値を拾うと次のような表、グラフとなり、全国6カ所の火薬製造所中、宇治火薬製造所がおよそ4割占め日本最大であることが分かりました。

 宇治発電所からの強力な電気供給により、製造にますます拍車がかかり、終戦間際の昭和20年7月になると、「火薬類ノ生産増強ニ関スル閣議決定ノ件」という件名で「戦局の進展に対応し決戦兵器の基幹たるべき火薬類の生産は愈々之を増強するの要あるに鑑み6月29日閣議決定相成り 火薬類及其原料関係工業を刻下の重点部門とし 之が生産増強上各般に亘り最優先的取扱をなし 之が為必要なる一切の措置を強力且迅速に遂行すること」との国家あげてなりふり構わぬ姿が資料から見ることができます。

 今日の安倍・菅と続いた政権が、軍事予算を8年連続で過去最大に更新し、国内総生産(GDP)の1%枠も越えようとしていますが、自民党総裁選への出馬を表明した高市早苗前総務相は10日、防衛費の増額に意欲を示し、「米欧並みにするならばGDPの2%で、10兆円規模だ」などと述べており、あの悲惨な戦争に突き進んだ狂気に通じる恐ろしさを感じています。早くこんな政治、変えなくては!命を守る政治こそ私たちの願いです。

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18.宇治発電所導水路

フェイスブック掲載日2021/9/20

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 宇治発電所導水路の図面が手に入ったので、さっそく、山科まわりで石山寺から瀬田川へ行きました。取水口は瀬田川洗堰の北にあり、ここから発電所まで11キロの水路が通されています。琵琶湖と宇治の標高差を利用したもので、水路の掘削工事はかなりの難工事だったのでしょう。

 ここから、瀬田川沿いに宇治に向かって下り、途中、立木観音の800段の石段を登り切り、買ってきた近江牛弁当で昼食をとりました。

 次に目指すはGoogleマップにも載っている「宇治発電所導水路 8号開渠」という所です。発電所まで11キロの水路のほとんどが暗渠ですが、地下水路の途中で、何箇所か地上に姿を現す場所が有り、ここも其の1つです。山の中に突然こんな水路が現れるのですからとても異様な景色です。

 辺りはもう秋の気配が感じられ、明日の中秋の名月にむけ、ススキをとって帰りました。

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19.軍隊による民有地の汚染

フェイスブック掲載日2021/10/1

 沖縄宜野湾市の米軍海兵隊が普天間基地において、有害で残留性の高い有機フッ素化合物を含む汚水を、一方的に宜野湾市の公共下水道に放出していた問題で、昨日、那覇市議会は日米両政府に強く抗議する意見書と決議を全会一致で可決しました。今度の総選挙で、こんな米軍基地のない平和な沖縄、日本を実現する大きなチャンスです。

 さて、宇治の「火薬調査」になりますが、日清戦争が始まり、明治政府は軍備拡張の一環として1896(明治29)年4月14日、宇治火薬製造所を開所しました。

 宇治市史には、「1898(明治31)年、五ヶ庄付近の稲田八町七反のうち一割近くが収穫皆無、半数が収穫五分減の被害を出している。かさねての凶作に、荒川宇治郡長は火薬製造所の汚水が原因ではないかと京都府に調査を依頼している。府はこれに答え、府農会技師を派遣して水質検査をした結果、火薬製造所の排泄水はいずれも酸性反応を示し、硫酸の有害水分が混入しているとの調査結果となった。府は陸軍省に対して除害の方策を講ずるよう要請するが、被害補償についての新聞報道はない。」とあります。宇治火薬製造所でもやはり汚水による公害問題が発生していたのです。

 この件については、国立公文書館アジア歴史資料センターに次のような文書がありました。

 1898(明治31)年11月7日付け「宇治火薬製造所硝化場排水溝新設の義に付伺い」というタイトルで、概略「宇治火薬製造所硝化場より排出する汚水は従来民有耕地に接続する小溝に流していたが、排水には多少の酸気を含有している。火薬製造が増加するに従い排水量が増加し、民有耕地を害するので、別紙設計図面の通り宇治川に排出することとする。」と陸軍大臣子爵桂太郎に伺い文書を提出している。

 被害補償には全く触れず、こっそりと汚水を宇治川に流すことを時の陸軍大臣が決裁するなど、今も昔も変わらない権力の傲慢さ、卑劣さを感じます。

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20.うれしいお知らせ

フェイスブック掲載日2021/10/9

 先日、府職員退職者会からうれしいお知らせがありました。

 舞鶴の退職者の方を通じて、私がFacebookに掲載している「宇治の火薬」を読まれた方が私との連絡を求めてこられたのです。

 その方は舞鶴鎮守府というとても大きな海軍の組織と施設、一世紀にわたる基地のある町と市民の様子を中心に「戦争・空襲」に関する調査・研究を17年間に渡りされておられます。主に「市民」の証言を基に、あらゆる方に話を聞きに回り、すでに4冊のノートにまとめておられるとか、その成果はすごいものと思います。ただ、最も話を聞きたい方が、鬼籍に入られることの速さに少々焦りも覚えるとおっしゃってます。

 今取り組んでられる仕事は、鎮守府設置以来、今日まで、海軍がどのように用地を確保したのか、特攻をはじめとして、どのようにして一億玉砕を叫ばせたのかを、課題別に証言を織り交ぜ世に問いたいと言っておられます。きっと素晴らしい成果物ができると期待しています。

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 私は、大勢のみなさんとお話をしたく思っていたので、大変うれしいことですと返事しました。

 「宇治の火薬」調査が進むにつけ、宇治の火薬製造のスケールが日本一であることがわかり、その火薬が計り知れない命を奪ったことは絶対に忘れてはならないと思っていること、私の調査の手がかりは、戦跡の現地調査と、宇治市史、旧日本陸軍の資料(国のデジタルアーカイブ資料)から主に情報を得ていること、資料の中には、時々、当時の支配者の考えや動きが鮮明に見える文書とも出会い、まるで宝物を見つけたような興奮をおぼえること、などをお伝えしました。

 調査を始めて数ヶ月にも満たない私に対し、このような連絡をいただき、非常にうれしく思います。これからもいろんな事で情報交換できればと願っています

21.隠元橋周辺の発見 その1

フェイスブック掲載日2021/10/10

 先日、隠元橋を車で渡っていると、かみさんがカーナビを見て、「向島渡シ場町」というところがあるよと指差した。ちょうど「隠元の渡し」のうんちくを垂れていたところだったので、びっくりして見やり、そういう地名があることも知らずに偉そうなことを言っている自分に少々あきれながらも、その住所に向かうことになりました。

 隠元橋の東詰あたりから、斜めに渡った付近に「渡し場」にちなんだものがあるだろう、との狙いです。

 実は以前、宮内庁書陵部画像公開システムで明治初期の宇治木幡村の地図をみつけ、「隠元の渡し」が図示されているのに関心を持ちました。宇治川右岸から左岸に渡るのに、川の流れに逆らわず、斜めに渡るように絵が描かれていたのです。

 しかも、この地図はもっとすごいことを伝えています。左岸寄りに中州が描かれており、これによって細い分流がつくられています。左岸から右岸に渡る場合、川を遡らなければなりませんが、この分流を使えば比較的簡単に上流に向かうことができ、地図に書き込んだ赤線のようにたやすく右岸に渡っていたと推測できます。この地図を見てはじめて分かったことです。

 さて、狙いを付けていた所には「隠元の渡し」の目印の一つとして御神木が立っており、そのそばに「隠元の渡し址」の立て札がありました。「向島渡シ場町」には船頭さんが暮らしておられ、右岸から左岸に渡る人は大声で船頭さんを呼んだと言われています。

 なお、「ひろば京都の教育」160号(2009.11)に元教員で郷土史研究をされておられる早川幸生さんが「渡し舟(渡し場)」のタイトルで「隠元の渡し」など「ワタシ」を書いておられ大変参考になりました。

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22.隠元橋周辺の発見 その2 「岡屋津」

フェイスブック掲載日2021/10/12

 先日アップした「隠元橋周辺の発見その1」に府会議員の水谷さんから、「岡屋津を調べてみては」とのアドバイスをいただきました。さっそく調べたところ、私にとって歴史認識を改める大変貴重なアドバイスとなりました。

 地図をご覧ください。太閤堤ができるまでの巨椋池周辺の姿です。岡屋津は巨椋池の津だったのです。宇治川・淀川水運の要衝で、巨椋池をはさんで西の淀津とともに東の岡屋津として、国の内外の船が集まり、物産の積みおろしに賑わう重要な港でした。

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 巨椋池干拓誌(昭和37年10月 巨椋池土地改良区発行)には、「室町期に編纂された『善隣国宝記』によると、建治元(1275)年正月十八日、蒙古人二人、高麗人一人、明州人一人鎮西より送られ、皆京都に入らず、山崎より岡屋・醍醐を経て関東に趣いていたのである。この一行の道順はこの文章よりみて当然淀川水運により山崎から巨椋池に入り、岡屋に上陸したものと思われるのである。鴨長明も岡屋に行きかう舟はこのところ往返の舟なり云々、と述べているが、岡屋の浜はすなわち後世の隠元の渡し場であり、古くから巨椋池を横断して岡屋に上陸し東国に向かう重要なる通路であったことが知られる。」と書いています。大層に言えば、国際色豊かな港だったのです。

 

 元亀四年(1573年)には、室町幕府将軍足利義昭が、織田信長に対して兵を挙げ槇島城へ籠城したが、岡屋津に陣取った織田信長の前に屈服、室町幕府が実質的に終焉し、時代が大きく変わる歴史的な舞台となった所です。

 いままで私は、宇治川を挟んで対峙していたと思っていたのですが、地図を見れば、双方の位置関係がよく分かりました。

 

 しかし、文禄三年(1594)、豊臣秀吉によって、宇治川左岸の堤防、槇島堤が構築され、岡屋津は巨椋池から切り離され、以後衰退しました。

 太閤堤による不自然な宇治川の流れの形成や、自然環境、文化の破壊などを考えたとき、宇治市による総事業費73億円をかけた「宇治川太閤堤跡」等のイベント的な整備が果たして妥当なものであったのか、疑問を抱いています。

23.隠元橋周辺の発見 その3 「人車鉄道」

フェイスブック掲載日2021/10/15

 日清戦争を機にできた火薬製造所、日露戦争を機にできた同分工場は、トロッコで結ばれていました。明治42年測量の地図に「人車鉄道」とあるのがトロッコ道です。

 この時代、製造所内の輸送手段は総てトロッコで、黄檗の火薬庫と製造所もトロッコで繋がっていました。

 また、遠方への輸送は宇治川、淀川の水運が頼りでした。輸送基地は隠元渡しでした。地図を見ると、荷揚場から宇治川と繋がっていました。火薬製造所の荷揚場が隠元渡しと一致します。

 京都大学名誉教授の西山卯三博士の回想録である「戦争と住宅」で、「日清戦争に際して大阪砲兵工廠傘下に急遽火薬製造所がつくられることになり、黄檗の火薬庫の近くに製造工場がつくられた。生産量が後ほど桁はずれに増加してみると、危険分散のため隔離といったことを考えるようになるが、当時はむしろ製造から貯蔵の連絡の便利さが買われたのであろう。」と述べられています。鉄道が利用されるまでは盛んに宇治川が利用されたのでしょう。

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24.「強制させられた貯蓄」

フェイスブック掲載日2021/10/20

 京都自治労連が2016年に発行したブックレット「戦争と自治体」に「強制させられた貯蓄」とのコラムがあります。美山町の例が載っていますが、昭和14年ごろから戦争が終わるまで、実に様々な貯蓄に応じなければならなかったそうです。

 昭和12年、日中戦争の開始により、多額の戦費を補うため国民に対し貯蓄が奨励され、戦地債券の購入が割り当てられ、戦費として使われました。

 貯蓄奨励運動の結果、昭和15年には総貯蓄額が100億円を達成、17年には500億円を超えるまでになりました。昭和16年の写真には目標135億円と写っており、少なく見積もっても現在の価格で35兆円程になります。

 この「運動」は昭和16 年に制定された「国民貯蓄組合法」という法律によって組織的に展開され、国民は住んでいる町村や勤めている職場、通っている学校などで結成された国民貯蓄組合の構成員となり、それぞれの組合で貯金をしなければなりませんでした。

 国立公文書館アジア歴史資料センターで宇治火薬製造所における「貯蓄現在額調書」(昭和16年6月末調べ)という資料が見つかりました。数値は表の通りですが、従事者5,374人の貯蓄総額は当時の額で812千円、現在の価格に直すとおよそ21億円にもなります。これを戦費として吸い上げる仕組みができていたのです。国民のあらゆるものが戦争遂行のためにむしり取られました。

 

 最近のニュースでは、岸田内閣は国家安全保障戦略の改定について「敵基地攻撃能力の保有も含めあらゆる選択肢を検討するよう改めて確認した」と明言しました。

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 防衛費についても、自民党が衆院選公約と同時に発表した政策集で、「対国内総生産(GDP)比2%以上も念頭に増額を目指す」と明記しています。

 なんとしても今回の総選挙で自公政治をストップさせなければなりません。

 昭和18年になると政府は「国債貯金」を創設し、貯金の払い戻しを現金ではなく、国債で行うようになり、国民からのピンハネシステムを完成させました。

 当時と現在との比較はおよそ2,600倍で計算しました。

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