宇治自治体問題研究所
旧・宇治火薬製造所
歴史を探る
(2)
厨子義則さんのフェイスブックから転載
9.国立公文書館デジタルアーカイブ 一次資料がすごい!
フェイスブック掲載日2021/8/8
宇治における火薬の歴史は、明治の初めに近代日本の軍隊を生み出した大村益次郎に行き着く。明治新政府で陸軍を担当した大村は、国内治安と対外出兵に対応して、大阪に軍隊と造兵廠(兵器工場)、宇治に火薬庫をおくことを計画。宇治を選んだ理由は大阪まで宇治川の水運を利用できるためであり、その下見のため、京都に逗留中、刺客に襲われた。享年45歳。(『黄檗 : 京都大学化学研究所広報』27号より)
中公新書の「大村益次郎-幕末維新の兵制改革」(絲屋寿雄著)「Ⅺ 遭難と終焉 兇行当夜の京都」の項を読むと、「大村は、明治2年8月13日に京都に到着、木屋町二条下ル二番路次にある長州藩の控屋敷に投宿。着京の翌日から伏見の練兵場で兵の調練検閲をやり、諸所の兵営を巡徊し、また宇治川を遡って朝日山の下に設ける火薬庫建設地を踏査」した。
国立公文書館デジタルアーカイブで、明治2年の「公文録 京都兵部省の部」をみると、「兵部大輔昨夕着京候所今日一日休息致シ明十五日ヨリ出仕可申候條ニ付此段御届申上候也 八月十四日 兵部省 辨官御中」とあり、京都へ着いたことがうかがえる。
ところで、「朝日山の下に設ける火薬庫建設地」は、旅館亀石楼あたりか、それとも対岸の白川の地か?
同じく明治4年の「公文録 京都府の部」をみると、「城州宇治郷等ヘ火薬製造場取建ニ付地所兵部省ヘ引渡ノ儀伺」というのが明治4年4月23日付で京都府から辨官あてに出され、指示を待っている。場所は「城州宇治郷並白川村地内 反別七町九反五畝弐九歩」となっており地図まで付いている。この時期まで明治政府は、「火薬庫」でなく「火薬製造場」を「黄檗」でなく「白川」につくることを予定していたのだ!
宇治の火薬調査のためにいろいろな資料を読んだが、ここに来て、一次資料「公文録」が示す強烈な事実にただただ驚くばかりだ。
しかし、結果として「火薬庫」は黄檗宗万福寺の敷地を没収(上地)して、明治4年に「黄檗」に建設された。
宇治市史第4巻には、「人家密集地からやや離れ、かつ水運に便利な点から宇治川畔の宇治郷並びに白川村にまたがる地域、および五ヶ庄村が候補にあがった。当初は白川が有力で明治4年6月には用地の買収が決まっているが結局、五ヶ庄に決定された。この間の経緯はあきらかではない。」となっており、ますますこの経緯を知りたく、デジタルアーカイブを繰ってみたが、見つけられなかった。
宇治の火薬の始まりは大村益次郎であったとわかったが、依然、謎を残したまま、戦争遺跡の調査は続きそうだ。
※「国立公文書館デジタルアーカイブで提供するデジタル画像等については、任意にご利用いただけます。」
10.陸軍水道揚水ポンプ場
フェイスブック掲載日2021/8/11
写真のA点が「宇治火薬製造所分工場の入船口又は荷揚場」で、B点が「陸軍水道揚水ポンプ場」です。また、C点は【写真1】です。
従って、昨日の以下の文章には誤りがあることをお伝えし、お詫び致します。
京都市伏見区にある宇治火薬製造所分工場の入船口、もしくは荷揚場はこのあたりかと、地図を見ながら宇治川岸に降りてみると、とても異様な光景に目を疑いました。写真で分かるでしょうか。水中に構造物の基礎の様なものが残っているのです。宇治川筋一体は戦後、護岸工事が施されており、このような姿で残っていることはとても希少なことと思います。私は、位置からすればやはり、宇治火薬製造所分工場の入船口、もしくは荷揚場ではないかと思っています。【写真1】川原付近を調べると、写真のようなコンクリート製の物体がいくつも転がっています。何に使われていたのか、新たな疑問が生まれました。【写真2】
さて、川岸を登り、東側には【写真3】のような古めかしい設備を持った施設があります。ここは京都市上下水道局宇治川取水ポンプ場です。地図を見れば、宇治火薬製造所分工場の北西側に当たります。「古めかしい設備」が火薬製造のための「取水ポンプ」ではないか、と当たりを付け、さっそく図書館へ。
「京都の『戦争遺跡』をめぐる」【新装版】(つむぎ出版 平和のための京都の戦争展実行委員会編 池田一郎・鈴木哲也著)に予想もしなかった情報がありました。「陸軍水道揚水ポンプ場」のタイトルで、以下の説明がありました。
「京都市上下水道局宇治川取水ポンプ場」は陸軍時代、ここで汲み上げられた水はパイプを通り、桃山南口駅を北に向かい、六地蔵を経由し、山の上にある伏見城の外堀跡を利用した貯水池(現:北堀公園)へと貯められました。
※私が高校生のころ、この貯水池によく遊びに行きました。
1905年(明治38年)に陸軍第16師団の設置が決まった時に、伏見各地に設けられる軍施設への水道設備はなく、ここに貯水池を設けた上で伏見城の堀も利用しつつ宇治川から水をポンプで揚げ、各施設に送水していました。
また、軍事施設でありながら京都市との協定により民間にも水を供給した珍しい施設でもありました。
「宇治火薬製造所分工場」と「陸軍水道揚水ポンプ場」との関連はまだ不明ですが、双方ともほぼ同じ場所にあり、ポンプ場は分工場の一部分です。また、陸軍第16師団の設置が決まった時期と宇治火薬製造所分工場が設置された時期は、いずれも日露戦争に対応するためであり、同時期に設置されています。宇治川岸にある構造物跡はやはり軍事施設の跡ではないかと確信を深めています。
<訂正と謝罪>2021.08.12
昨日、私の早とちりで、アップした内容は間違っておりました。本日、落ち着いて地図を見直したところ、新しく付けました地図のとおり、「宇治火薬製造所分工場の入船口又は荷揚場」と「陸軍水道揚水ポンプ場」はまったく別の場所にあることが分かりました。
11.「慌ててつくられた」黄檗火薬庫-火薬運搬規則の布達
フェイスブック掲載日2021/8/18
戦跡としての旧陸軍の黄檗火薬庫については多くの調査研究報告があります。火薬庫の土塁とトンネルが宇治市平和都市推進協議会により保存されており、「戦争の記憶が薄れつつある現在、過去の状況を今に伝える貴重な構造物」として人々に語り継がれています。
しかし、建設予定地として用地買収が決まっていた旧宇治郷及び白川村から、黄檗に変更して建設された経過は、宇治市史第4巻にも明らかにされておらず、それを解明した調査研究も見当たりません。(どなたかご存じであれば教えてください。)その理由が分かったところで、大勢に影響はないでしょうが、調べることで明治初期の慌ただしい一時期が垣間見えたように思います。
明治初期の公文録を見ていると、明治4年11月5日に、火薬運搬規則が布告されていました。これは、火薬運搬の細々とした規則を述べたものですが、ねらいは「先の廃藩により、元藩にあった火薬類すべては、鎮臺または武庫司へ取まとめのこと。」との一文につきます。つまり、明治新政府による旧幕府の武装解除です。
この年7月14日に廃藩置県の詔書が出され、明治政府は、地方統治を中央管下の府と県に一元化することとしました。その前後から各藩では、城の明け渡しや、武器弾薬の売却など、明治新政府に従う動きが始まっていました。そして、その動きを誘導する規則は布告されましたが、集めた武器弾薬を貯蔵する入れ物がまだありません。
宇治に火薬庫を作れとは大村益次郎の計画でしたが、未だに宇治郷及び白川村なのか、黄檗なのか決まっていませんでした。
このことは、宇治市史に書かれている次の経過を見れば明らかです。明治4年1月5日(1871年)に寺社領の上知が命じられ、柳大明神(許波多神社)と万福寺の山林も上知されましたが、同年11月に、上知された柳大明神と万福寺の山林を払い下げるよう、五ヶ庄村が京都府に願い出ているのです。やがて、ここに火薬庫がつくられるのですが、火薬庫ができてから山林の払い下げを求めるはずもありません。そして、次に出てくるのが、「明治5年5月、黄檗の火薬庫に火薬の運び込みが開始される」との記述です。
つまり、明治4年11月から明治5年5月のあいだに、建設用地の変更を決定し、突貫工事で火薬庫が建設されたのです。新政府の慌ただしさが伝わります。
建設用地変更の理由はいくつか考えられますが、決定的な理由は予定地面積のサイズと取得の容易さにあったと思います。買収が決まっていた旧宇治郷及び白川村の用地は「七町九反五畝弐九歩」=約8㌶ですが、1871(明治4)年時点で火薬庫に充てられた万福寺南側の敷地は「86,706坪」=28.6㌶と宇治郷及び白川村の3.6倍で、しかもすでに上知されているのです。黄檗を選ぶのは当然といえるでしょう。そして、黄檗火薬庫の存在がやがて、宇治火薬製造所の設置に繋がり、急速に膨張する軍国主義日本の戦争遂行を支える欠かせない存在となるのです。
さて、明治5年5月から開始された黄檗火薬庫への火薬の運び込み第一陣は、旧淀藩が淀城に保管していた火薬ですが、同年10月19日(1872年)、火薬移送の際、隠元の渡しのあった岡屋津で弾薬18樽を陸あげ中に爆発し、輸送人夫9名が死亡、家屋2軒が焼失する事故が起きています。5月から始まり、なお10月まで続く移送作業ですから、その量は膨大で、作業に隙ができたのでしょう。
淀藩については次の機会に報告します。
12.いつか来た道
フェイスブック掲載日2021/8/26
防衛省は来年度概算要求で、5兆4,000億円台の軍事費を計上するが、これは8年連続過去最大の更新となる。軍事費の目安である国内総生産(GDP)の1%枠を越えてしまう。
いつか来た道にならないために、歴史に学ぶことが大切だ。
1915(大正4)年9月17日閣議決定の「帝国政府は露国政府の悃請に対し同政府と大要別紙の約款を以て兵器供給の約束を為す」という極秘文書が国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧できる。それによると、第1次世界大戦からロシア革命に続く歴史の流れの中で、当時のロシアは莫大な武器、弾薬、火薬を日本に求めてきた。これに対し、「帝国政府は砲兵工廠の作業力を増進し戦時に等しからしむる為工場を擴張し尚民間兵器製造所を新設し以て小銃約190万挺実包約15億万発を製造し露国政府に譲与す」とし「工場の擴張を為す之が為本年12月追加予算として提出すべき緊急擴張費77万余円の外更に東京砲兵工廠の小銃製造所設備費として此の際更に約55万円の支出を要す」と追加予算要求をしている。
このように、ことある度に軍拡をおしすすめ、ロシア革命後は日本史の外交上最も失敗した外交と言われる「シベリア出兵」をおこなった。共産主義封じ込めと、帝政時代の外債と、露亜銀行などさまざまな外資を保全する狙いだが、この出兵で日本は3,500名の死傷者を出し、10億円(現在の3兆5,280億円)に上る戦費を消費したうえ、国際関係の悪化を招いた。
菅首相は「日本政府は防衛費をGDPの1%枠に抑えるというアプローチを採用しない」(米誌ニューズウィークのインタビュー、今月11日付電子版)と明言、際限のない軍拡に突き進もうとしている。防衛省の概算要求には、沖縄を含む南西諸島の軍事態勢を強めることや、そのための兵器増強などが盛り込まれるが、軍拡の狙いは、中国と覇権争いをしているアメリカの軍事戦略に追随・加担するためであり、4月のバイデン米大統領との共同声明で、日米同盟と日本の軍事力を強化する決意を表明した。
歯止めなき軍拡要求は「いつか来た道」に直結する。世界では、経済の停滞による主要国の権益争いが激しさを増しているが、戦前によく似た状況だ。
13.「戦争と住宅-生活空間の探求(下)-」
(西山卯三著、勁草書房1983.7.15発行)
フェイスブック掲載日2021/9/6
京都大学名誉教授の西山卯三博士の回想録であるこの書物には第18章「宇治火薬製造所」があります。
1937(昭和12)年8月16日夜、宇治火薬製造所の大爆発事故のにぶい爆発音を北白川の下宿で聞いた西山氏は翌1938年、陸軍歩兵少尉として宇治火薬製造所に赴任することになりました。仕事は主に宇治火薬製造所の北側にある分工場で、工務掛の営造担当の責任者として火薬製造棟の新・増築や、修理、補修など建設関係全般を任されていました。
ここで3年間、その任務に就いており、文中からは宇治火薬製造所及び分工場の経営から、非生産的で非人道的な戦争の姿が伝わってきます。そして、「分工場の北側に…国鉄木幡駅から京阪電車をこえて鉄道引込線がひかれた。この仕事は私の応召中最後の仕事で、その完成を見ずに去ったが、…」との部分に釘付けになりました。この引込線こそ、私の子供の頃の遊び場であり、現在、我が家の北側に東西に走っている土堤なのです。これを西山氏が手がけていたとは、まったく知りませんでした。
この書物は「宇治と火薬」を調べる上で、非常に重要な情報を与えてくれる1冊です。ご関心のある方はぜひお読みください。
宇治火薬製造所の調査を通して、第1次資料に当たることの大切さを痛感しています。以前、「火薬製造所の大爆発」で、西山氏の回想を載せたのですが、それは「京都の赤レンガ」(京都新聞社発行)という本からの情報でした。原文である「戦争と住宅」を読んだのかとのご指摘や、第1次資料に当たれと教えて戴いたみなさんのアドバイスに感謝しています。大変重要な資料を得ることができました。
14.宇治は火工廠の中でも、日本最大の火薬製造工場
フェイスブック掲載日2021/9/7
西山卯三氏著「戦争と住宅」には第18章「宇治火薬製造所」の前に第17章「日中戦争」があり、ここで、応召から宇治火薬製造所までの経過が語られています。
西山氏は1937年に召集令状を受け、「東京の陸軍火工廠に出頭せよ」との命令で陸軍火工廠本部に出頭、宇治火薬製造所への配属が決まったが、しばらくは本部の技術課付として、最初の仕事が、宇治火薬製造所に新しくつくる黄色薬(ピクリン酸)製造工場2棟の建設設計でした。時あたかも日中戦争が始まり、臨時軍事費特別会計予算が交付され、戦争という大浪費のスタートが始まった時期であり、火薬製造所の拡張もその中に含まれていました。
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写真は旧宇治火薬製造所(現在は陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処)に現存する火薬乾燥棟です。
氏はこの章で「宇治は火工廠の中でも、平時は全軍隊の需要の半分をまかなっていた日本最大の火薬製造工場である。その拡充の仕事に私は組みこまれた。私の仕事はむろんこの予算によるもので、『臨軍費』(臨時軍事費)の印である臨とかいたハンコがすべての書類におしてあった。」と回想しています。
私は、この書物に出会い、宇治火薬製造所の規模について、いままで「西日本最大の火薬製造拠点」と表現していましたが、認識を改めざるを得ません。みなさんから「原文を読め、第1次資料に当たれ」とのアドバイスがあればこそ、の得難い情報だと思います。
15.旧日本軍の関与、強制性
フェイスブック掲載日2021/9/10
今日のしんぶん赤旗に、中学・高校の歴史教科書の記述について、「従軍慰安婦」の「従軍」の文字を削除させるなど、政府の圧力により書き換えさせたことが報道されています。ほかにも朝鮮人の「強制連行」「強制労働」も適切ではないと閣議決定しています。旧日本軍の関与、強制性の否定が狙いですが、未来を担う子供たちに真実を教えず、誤った理解を植え付ける政府のこんなやり方、許してはなりません。
私は今、宇治の旧火薬庫や火薬製造所の歴史を調べていますが、いろいろな場面で軍の関与、強制性に出くわします。
たとえば、火薬庫をつくったとき、黄檗山万福寺の寺領や柳大明神(五ヶ庄の許波多神社:こはたじんじゃ) の土地を強制的に取り上げましたし、火薬製造所の土地は、土地所有者を一ヵ所に集めて、一斉に所有権移転させ、結果、わずかな期間に所有権移転が完了したと言われています。
宇治発電所というのが宇治塔の島の東側、宇治上神社付近にあり、今も現役で活躍していますが、私にとって非常に気がかりな所です。この発電所は、関西電力(株)の前身である宇治川電気(株)が1913(大正2)年に設立した発電所ですが、古い資料を調べていると、その設計段階から軍の関与が濃厚にあっただろうと思われます。
実は今日、宇治発電所の写真を撮ろうと現地に出かけました。残念ながら中には入れず、余水排出口付近の写真を撮ってきました。まとまればアップしたいと思います。
お昼ご飯は、久しぶりに宇治橋通りの川魚専門店「鮒栄」特上うなぎ弁当を、塔の島で食べました。ご飯の下にもうなぎがかくれていました!
16.宇治発電所は日本最大の火薬や兵器製造を支えた
フェイスブック掲載日2021/9/18
宇治川電気株式会社編「第1期水力電気事業沿革誌」は国立国会図書館デジタルコレクションから見ることができる。
宇治川電気株式会社(宇治電)は 1906(明治39)年に創立。「第1期水力電気事業」は琵琶湖から唯一流れる瀬田川から取水し、延長約11kmの導水路を通して宇治発電所まで送水した。これが完成した 1913(大正 2)年当時としては、日本最大の水力発電所であり、その電力は京都、大阪地域へ供給された。
この「沿革誌」には発電所完成までの紆余曲折した経過が記されている。明治20年代後半から30年代にかけ、全国的に水力発電事業が軌道に乗り始めたころ、宇治川でも1894(明治27)年に京都の有志による発電用水路の掘削を出願、翌年には大阪、滋賀、東京の有力者からそれぞれ同様の出願があり、競願が処理しきれなかった内務省はこれらをすべて却下し、出願者に合同を勧めた。出願者の協議が成立して一本化した計画が提出されたのは1902(明治35)年、許可が下りたのは1906(明治39)年だった。これに基づき、宇治発電所の第1期水路工事が1908(明治41)年12月に開始された。
さて、内務省のこの処分の背景に陸軍省総務長官中村雄次郎と内務省総務長官大森鍾一との内牒があったことは見逃せない。1901(明治34)年6月、「宇治水力電気発動所設置に関する件」という件名で、宇治発電所の概要が両省の間で確認されており、国立公文書館アジア歴史資料センターで見ることができる。
完成した宇治発電所は27,630kWの出力で運転を開始し、当時、関西地方で最大と言われた蹴上発電所4,800kWの6倍近い規模であった。
宇治市史を始め、多くの書物には、「この電力は宇治市内に電灯をともし、京阪電車を動かし、ユニチカなど多くの工場を誘致して、宇治市の近代化と発展に寄与し続けた。」と書かれている。もちろんそうだが、この電力こそが石炭火力に頼っていた宇治火薬製造所や同製造所を統括する大阪砲兵工廠の動力を電気に切り替え、日本最大の火薬や兵器製造を支えていたという事実は決して忘れてはならない。