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毎年各地で「記録的な豪雨」

宇治川は大丈夫か

昭和28年災害

小学校4年生 社会科学習資料

おぐら池

(3)

​作:布川庸子さん(元教諭)

おぐら池表紙2.jpg

目次

6.干拓田

7.周囲の土地の改良

​(以下は次ページ)

8.池にもどった干拓田

9.ダムの建設

10.新しい問題

​ 後記

五.干拓工事

干拓工事.jpg

 おぐら池は、全体にあさく、深いところでも二メートルぐらいしかありませんでした。ですから、よそから土をもってきて、うめたてるのではなくて、池の水を出してしまう方法がとられました。(干拓)

 もともと低い土地だから水が集まって来ていたのです。水がしぜんに流れ出るはずはありません。そこで、掘(ほ)る機会をつけた船で池の中央に、大きい水路をつけ、そこに水を集め、さらにそれが東一口(ひがしいもあらい)の方に流れ、排水(はいすい)ポンプで淀川に流せるようにしたのです。

 水を出して池の底(そこ)が出てきたら、ヨシやマコモを切って、うち起こしをし、地ならしをしました。

干拓前の池2.jpg
干拓後.jpg

 はじめは、どろぬまなので、水路(すいろ)を作るのも道を作るのも大変くろうしたということです。

 土を運ぶのもみんなの力で、トロッコやもっこが使われました。

 工事のとちゅう、三度も大水害にあい、大きな痛手を受けました。

 大きな費用と様々なくろうをつみ重ね、日本の国としては、はじめての干拓田の事業が完成したのです。

​ こうして、大きなおぐら池は整然と区画(くかく)整理された美しい田んぼに作りかえられました。

六.干拓田

 干拓されてできた田んぼは、もとは池の底であったため、土地が大変こえていて、数年間は肥料もいらなかったということです。

 しかし、どろぬまのようで、仕事をする上では、いろいろなくろうがあったということです。

 作業をしに田に入ると、ずぶずぶと泥(どろ)の中ににえこんでしまうのです。ひどいときは人も牛も体全体が泥の中にうまり、体がぬけ出せなくなってしまうのです。これでは仕事になりません。

 ですから人々は体がにえこんでいかないように、いろんなくふうをしました。

 新しい田は、約五分の二は池の元の持ち主に返され、残りの五分の三を、もと漁業をしていた人に優先(ゆうせん)的にはらいさげられ、次に今まで自分の田や畑をもっていなかった農民に売られました。他は自分の土地をもっと広くしたいと願う人が買いました。

​ 新しく自分の土地を手に入れた人々は、今まで以上に仕事に励(はげ)みが出、こんなんにめげず一しょうけん命泥土の田と、とりくんだということです

田づくり.jpg
農夫.jpg
農家の家.jpg

​ 家といえば、毎年のように水につかり、かべが落ちてしまって、街(かい)道からかまどにたく火が見えるというほどやったからなあ。それが淀川改修工事ができて、どうにかこう水からまぬがれたが、まだ池の近くの田は水につかりがちやった。しかし改修のおかげで、毎年、食う米がとれるようになり、だんだんお金まわりもようなった。こんにちの小倉は、そのころから思うと大名のようなくらしや。このごろの若いもんが麦めしをいやがり、娘たちは田植えも手伝わんという具合いでむかしのことを考えると、ほんとにばちがあたる。こんなよい田ができたんやから、お前ら若いもんは、しっかりきばらんといかん。」

 「なあ、けっこうなことやなあ。周囲四里(十六キロメートル)もある池が、こんなに美しい田になるなんて、ほんとうにゆめのようじゃ。なにしろわしらが若いときには、毎年毎年雨が二・三日も続けば、大池の水がすぐにかさんで、池の近くの田は植えては流し、植えては流しして、ひどいときは小倉の北の方はのきさきまでも水がきて、一年に二度も三度も逃げ出したことさえあった。そのころは、こう水にもなれていたが、水がでるたびに、その年の米がとれない。そのころの小倉はみじめなものでなあー。食う米がとれないために出かせぎに行って少しばかりの金をかせぎ、それで米や麦を買い、ひえやあわを作って、うえをしのいだ人さえあった。

 これは干拓田で作業をし、昼のサイレンとともに、あぜ道でべん当をたべながら、話し合ったときの一老農夫の話です。

 広い広い田んぼには、まるで白さぎがまいおりたように点々と、働く人の姿が見えたということです。みんな自分の田を持った喜びで、かがやいた顔をしていました。

七.周囲の土地の改良

 池が干拓田に生まれかわり、用水路や排(はい)水路がきっちり整備されていったのと同時に、周りのむかしからの田も、それらの整備がされました。

 このため一二六〇ヘクタールの土地が改良され、田の水がいつも加げんよく調整されるようになったのです。

 ですから、今年は大水で田植えができないとか、予定どおり米がとれないということがなくなりました。

 米のとれ高もずっとふえ、二毛作ができるようになったりして、ずい分農家の人の収入も増えました。

 とくに干拓田は土がよいため、コメのとれ高は多いのでした。

 多くの人の苦労がみのって、おぐら池干拓田は京都府の米倉といわれるようになりました。戦争中の食糧の足りない時に大いに役に立ったわけです。

​ 都市に近いため、野菜作りもさかんにおこなわれました。

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