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宇治自治体問題研究所
毎年各地で「記録的な豪雨」
宇治川は大丈夫か
昭和28年災害
小学校4年生 社会科学習資料
おぐら池
(4)
作:布川庸子さん(元教諭)
目次
八.池にもどった干拓田
昭和二十八年九月二十五日。
この年の十三号台風は全国的にもものすごいつめあとを残したのですが、特におぐら池干拓田も秋の収かく間近の田がたちまちにして泥池となってしまい、大変な被(ひ)害をこうむりました。
当時の水害のようすを久御山町のけいびにあたっていた人が、こう語っています。
浸水の翌二十六日情景
「忘れようとしても忘れることのできない昭和二十八年九月二十五日。台風のせっ近とともに前の日から降りつづく雨ははげしい北風をともなって、ますますいきおいをまして、うそのような話であるが、かさが重たくてさして歩けないような大雨となった。多くの村人とともに淀川堤防のけいびあたっていた私は、生まれてはじめて淀川がさかさまに流れるのを見た。八幡町で、宇治川、かつら川、木津川の三つの川が合流しているが、かつら川や木津川の水が上流に向かってきたのである。
水のかさは目に見えてまし、午後八時過ぎには堤防の上から手が洗えるほどになってきた。このままふり続くと午前三時に最高水位になると思われた。そうなれば、たとえ堤防が切れなくても両岸より水があふれて大変なことになるだろうという予感がしたので、どの農家もかっていた牛を見殺しにしてはかわいそうなので、ひなんさせに帰った。ついでに米とたたみを二階にあげて表通りにとび出してみると、ちょうどサーチライトのような白い光が一すじおぐら池に向かってのびている。
『あれはいったい何だろう。水か光か、どちらかだ。』など、みんなが口々に言い合っていると、自転車でたしかめに行った人が
『水だ!』
『切れた!』
一すじの光は見る間にひろがり、十分とたたぬ間に、ごうごうと水の音がきこえてきた。流木が、げき流に乗って矢のように早く流れてきたおそろしさは、いまだにわすれることができない。
決壊口(延長600米深さ6米)
ちょうど九時すぎであったと思う。一口(いもあらい)の村は土地が高く、おぐら池が遊水地の役目をはたしてくれていたので、私の家に水が来たのは明け方近くであった。庭にくつやげたが浮いて流れだす様子は思い出してもぞっとする。
稲のほが出そろったところであったが、排水場がしん水して排水がおくれ、一つぶも収かく出来なかったのである。もちろん畑の野さいも全めつした・・・」
台風十三號浸水到着時間図
決壊時刻二一時三〇分
このようなことで水害にあった人々はお寺の本堂でねとまりし、舟で運ばれたにぎりめしや野菜の配給を受けるくらしが続きました。
米が入れてある農協の倉庫もそのまま水につかって屋根だけ水面に見えました。道路も橋も田もみんな水の底にしずみ、まったく手がつけられないじょうたいになったのでした。
排水機場内の浸水
(点線は最高浸水位)
この水害で大変だったのはポンプ場がてい電のために動かなくなったことです。おぐら池干拓田の排水を一手に引き受けていたポンプが何の働きもしなくなったのですから、堤防が切れて水が流れこんだ干拓田はむかしの姿にもどってしまったわけです。奈良電(近鉄)の線路や電柱だけが切れぎれに見える、見わたす限りの水、水のおぐら池になってしまったのです。
それから必死でポンプ場の復旧作業が行われました。これ以上水が来ないよう南郷洗堰(ぜき)を閉めてもらうようにし、また淀川と池をへだてる堤防を切りひらいて自然に水がひくようにもされました。
大阪から潜(せん)水夫をたのんで水にもぐって修理しようとしたのですが、潜水夫がもぐるほど水は深くなく、おまけにどろ水で大変くろうしたそうです。
ようやく十八日めの十月十二日に初めて二台のポンプが復旧取付けされ、それからあとは次々につけくわえられて、十月二十六日に全部の十二台が回復を終えました。ポンプが動き出すと、それまでなかなかだった排水も急に進み、十月二十二日に最後にのこっていた西南の一部を干し切って完全に排水出来たのでした。実に二十八日かかったのです。
当時の思い出
ちょうど大学の一回生だった私は、この年はあちこちで水害があり、学校が休みになったのをおぼえています。由良(ゆら)川がはんらんして、福知山の町では、のきまで水がきたというので、急いでくにに帰る友だちもありました。
おぐら池が大変なことになっているというので見に行きました。観(かん)月橋の下がおそろしいだく流で、橋のコンクリートのところが少ししか見えなかったのはこの時のことだったと思います。橋をわたると向島ですが、もう家は全部といっていいほど水の中でした。二十四号線も橋から南へ坂になって下っているところから水の中に沈んでいました。
近鉄(その当時は奈良電)の鉄橋だけが、水に浮かんだような感じで、西の一体は、水、水のひろがりでした。どこからどうよって来るのか、あのようなすごい水のりょうは、あとにも先にもあれ以来見たことがありません。
学校は丹波橋にありましたが、それから後、風向きの具合で、ものすごい悪臭(しゅう)がただよって来ることがありました。
はじめは何のにおいかわかりませんでしたが、後で干拓田の稲が水につかって立ちぐされになったにおいだとわかりました、
◎昭和二十八年の南山城の水害は大変なものでした。その当時のことを知っている人に、聞いてみましょう。(八月十四・十五日に大雨。相楽・綴喜が大きなひがいをこうむった。)
◎井手町、国鉄玉水駅には水害のときに山から流された石がホームにのこされています。通るきかいがあれば、見てみましょう。
目次
6.干拓田
7.周囲の土地の改良(前ページ)
8.池にもどった干拓田
9.ダムの建設(次ページ)
10.新しい問題
後記
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